語学と私 (part3) ― IDIEZという(比較的思想の強い)団体が提供するナワトル語教育を3学期間受けた感想 ―

part 1 はこちら。

 

hsjoihs.hatenablog.com

 

part 2 はこちら。

 

hsjoihs.hatenablog.com

 

前回までで、ナワトル語の授業を履修することにしたきっかけについては記述したので、以降はその授業がどんな感じであり、履修してどうであったかについて書く。

 

「ナワトル語」の授業

 前回言及した

人「なにやってるんですか」

私「ナワトル語の単語帳回してます」

人「ナワトル語ってなんですか」

私「アステカ帝国公用語で、今でも160万人ぐらいが話してるみたいですね」

人「はえー」

についてだが、これは実際の構図を(意図的に)ちょっと単純化しすぎた表現になっている。

 

まず、「アステカ帝国公用語」というのは(大雑把に言うと)話題が16世紀であり、一方で「今でも160万人ぐらいが話してる」という話題は当然21世紀の話である。前回言及した Launey, M., & Mackay, C. S. (2011). An introduction to classical Nahuatl. New York: Cambridge University Press. の Preface を引用するなら、

Let us specify again that the language described here is Classical Nahuatl, the literary language of the century following the Conquest. Nearly five centuries on, there is clearly no region in which this variety of Nahuatl is still spoken. It is thus a dead language, or rather, a dead variant of a language, in the same way as the English of, say, Christopher Marlowe is a dead form of the English language. No one nowadays speaks exactly like that, but many hundreds of thousands of people speak present-day variants of Nahuatl, some of them fairly close to the classical one, so that travelers to Mexico today may be pleasantly surprised when recognizing words and expressions, thereby gaining more inside knowledge of the country and its people.

「Christopher Marlowe の話していた英語」と言われても伝わらないと思うので、日本語で同じあたりの年代の例を探すなら、1592年の天草版『平家物語』の表紙にある、

NIFONNO
COTOBA TO
Hiſtoria uo narai xiran to
FOSSVRV FITO NO TAME-
NI XEVA NI YAVA RAGVETA-
RV FEIQE NO MONOGATARI.
「日本(にふぉん)の言葉とイストリアを習い知らんと欲(ふぉっ)する人(ふぃと)のために世話(しぇわ)にやわらげたる平家(ふぇいけ)の物語」

とかを提示するのが無難なのかもしれない(歴史の教科書で見たことがあるという人もいるだろうし)。

https://dglb01.ninjal.ac.jp/BL_amakusa/2/or_59_aa_1_ftpr.jpg

dglb01.ninjal.ac.jp

 

ということで、なにが言いたかったかというと、前述の通り

  • アステカ帝国公用語」というのは(大雑把に言うと)話題が16世紀
  • 「今でも160万人ぐらいが話してる」という話題は当然21世紀の話

 であるがゆえに当然この両者の間に差があるぞ、ということである。

 

さて、今回私が受けたのがナワトル語の授業である旨は散々述べてきたが、これは古典ナワトル語の授業ではない。21世紀に話されている言語を、その言語の母語話者から習ったのである。

 

IDIEZという団体

今回受けた授業を主催していたのは、IDIEZという団体である。サイトは 

http://www.idiezmacehualli.org/ 。まずトップページを見ると、

IDIEZ A.C., es una asociación civil sin fines de lucro, promueve la investigación, la enseñanza y la revitalización de la lengua náhuatl

ナワトル語の研究・教育・言語復興をする団体と書いてある。さて、 

El curso que ofrece IDIEZ se enfoca en la cultura y lengua náhuatl (variante de la Huasteca Veracruzana) con un desarrollo curricular de cuatro niveles.

ナワトルの文化と言語(ワステカ・ベラクルス方言)に焦点を当てるとしている。ということで、ナワトル語の中でも「現代ワステカナワトル語」 の授業である、という断り書きを入れておいた方がいいだろう。(cf. Huasteca Nahuatl - Wikipedia) ワステカナワトル以外にも様々な現代ナワトルがあるということにも注意されたい。

 

 

英語版Wikipediaによると、この方言差はそこそこ大きいので相互理解ができるほどではないと書いてある。一方IDIEZ側は「現代ワステカナワトル語を学べば他の方言も分かるようになるよ」と主張していた。この主張はどちらかというとプロパガンダ寄りに私には見えた。他の現代ナワトル語を記述した研究書とかも読んでみたが、やはり現代ワステカナワトル語だけの知識では全然わからないところもかなりある。もちろん分かるところもたくさんあるが。

正書法規則

IDIEZ は古典ナワトル語のアルファベット表記*1にめちゃめちゃ寄せて現代ワステカナワトル語を書く。古典ナワトル語のアルファベット表記というのは、スペイン語を話す人々が作ったものであるので、当然ながら当時のスペイン語に基づいた表記になっている。

さて、当時のスペイン語は k というアルファベットを使わなかった(今でも外来語ぐらいにしか使わない)。ということで「カ」という音を書くには ca と書き、「コ」という音を書くには co と書く。さて、「キ」はどう書くか。ci と書きたくなるが、なんとスペイン語ではこれは「スィ」と読む。ということで「キ」は qui と書き、同様に「ケ」は que と書く。

逆に、「スィ」「セ」は ci, ce と書くが、「サ」「ソ」は ca, co と書くわけにはいかないので za, zo と書く。

結果として、

ca
qui
-c
-ク
que
co
za
ci
スィ
-z
-ス
ce
zo

という体系になる。なお、この体系は現在のスペイン語でもバリバリ健在である。たとえば amar (アル)「愛する」から「私が愛した」を作るには -ar (ル) を取り -é () を加えて amé (ア)とするのだが、practicar (プラクティル)「実行する・練習する」から「私が実行した・練習した」を作るには、同じく「ル」を取り「」を加えるので「プラクティ」となる。しかし「ケ」は que と書くので、 practicar が practiqué になるという綴り字の上での変化を喰らう。同様に、「始める」は comenzar (コメンル)なので「私が始めた」は当然「コメン」であるが、これも comenzé ではなく comencé と綴るので、 comenzar が comencé になるわけである。

 

また、当時のスペイン語は w というアルファベットを使わなかった(今でもやっぱり外来語ぐらいにしか使わない)。ということで*2、ナワトル語にもあるクヮ行やワ行は以下のように表記する。

cua
クヮ
cui
クィ
-uc
-クゥ
cue
クェ
hua
hui
ウィ
-uh
-ゥ
hue
ウェ

 

あと、当時のスペイン語では x はシャ行のような音であった *3 ので、ナワトル語のシャ行も x で綴る。たとえば México という国名自体がナワトル語 Mēxihco (メーッコ) を書き写したものである。ただ、スペイン語の方ではその後シャ行の音がハ行に変化したので、現在のスペイン語では México は「ヒコ」と読む。 

 

話が逸れるが(ほらこうやってどんどん記事が長くなる)、スペイン語をご存知の方のためにさらに補足。日本でスペイン語を学ぶと、z だったり ci, ce だったりは英語の th の音として教わると思うが、当時は ci, ce とかは「スィ」「セ」に近い音で、sa, si, su, se, so は(x- とはまた微妙に異なる)シャ行っぽい音であったとされている。詳しいことは https://en.wikipedia.org/wiki/Early_Modern_Spanish と 

https://en.wikipedia.org/wiki/Nahuatl_orthography と 

https://en.wikipedia.org/wiki/Phonological_history_of_Spanish_coronal_fricatives をご覧頂きたいが、せっかくなのでナワトル語に絡んだ話をしておくと、たとえばスペイン語 Castilla「スペイン、カスティーリャ」(カステラの語源でもある。もちろんカステラの方はポルトガル語を経由しているが)は古典ナワトル語では Caxtillān という形で入っているし、逆にナワトルの xōchitl (ショーチトル)を suchitl と s で表記している写本もあるようである。他の例は https://davidbowles.medium.com/mexican-x-part-xi-rise-of-a-new-x-4c30c0f74ad8 など。

 

まだ延ばすのかよ

さて、前回タイトルに 「IDIEZという(比較的思想の強い)団体が提供するナワトル語教育を2学期間受けた感想」と入れることができなかったので今回は「IDIEZという(比較的思想の強い)団体が提供するナワトル語教育を3学期間受けた感想」をタイトルに入れてみたが*4、感想もほぼ書いていないし IDIEZ の思想の強さにも全然言及できていない。ということでこの連載はもうちょい続く予定である。

*1:普段の私なら「ラテン文字表記」とか書いちゃうけど、これは一応一般向け記事ということになっているので

*2:この書き方には語弊がある。たとえば、当時のスペイン語ではクヮという音は qua と書いたりしたので、Launey, M., & Mackay, C. S. (2011). An introduction to classical Nahuatl. New York: Cambridge University Press. によると、実際の写本ではクヮは qua と書かれることが多かったらしい。というか1815年まではスペイン語では cuando とか cuatro とかは quando や quatro と綴るのを正則としていたようである。ワ行については、そもそも hu- で綴るのは珍しく、ワ・ウィ・ウェはそれぞれ ua/oa, ui/vi, ue/ve と綴るのが普通だったとのことである。

*3:ポルトガル語では今でも x がシャ行のような音である

*4:学期の数が1個増えていることに注意。もたもたしてたら記事を書き上げる前に春学期終わっちゃったよ