2025 年 12 月 14 日の hsjoihs からのお知らせ:
以下の記事は、4 年半前に書こうとして、永久に先延ばしにし続けたものを、ついに 2025 年の年末になって、今の私の記憶の総力を用いて適宜必要な文脈を補って公開しようというものです。とはいえ、かなり時が経過していることもあり、当時の文脈を必ずしも正しく思い起こせていない可能性が高いことにご留意ください。

以下、2025 年の私が後知恵で語っている部分は、紫色で書きます。
part 1, part 2, part 3 はそれぞれこちら。
2022 年の年末に公開した part 4 はこちら。なお、今回の記事の内容は(2025 年に書かれていながら) part 4 よりも昔の話であるため、遡及的に part 3.5 ということになった。
前回(これはpart 3 のこと)の冒頭には「前回までで、ナワトル語の授業を履修することにしたきっかけについては記述したので、以降はその授業がどんな感じであり、履修してどうであったかについて書く。」と書いたが、なんと驚くべきことに「授業がどんな感じであり、履修してどうであったかについて」書かずに前回の記事が終了してしまった。そういうこともある。
さて、前回で「古典ナワトル語 vs. 現代ワステカナワトル語 vs. 現代の他のナワトル語」「IDIEZ」「正書法規則」の3つの概念を提示できた。ここまでお膳立てを整えたことにより、やっとこさ本筋に言及できるのである。
IDIEZの気合い
IDIEZ はめちゃめちゃ気合いの入っている団体である。どれくらい気合いが入っているかというと、
IDIEZ って団体が現代ナワトル語の一言語辞書(644ページ)とか出してて、「気合い入ってるなこの団体」となった https://t.co/Zl7bMG7njL https://t.co/gguiG75XpD
— jekto.vatimeliju@hsjoihs@.sozysozbot. (@sosoBOTpi) 2021年6月18日
一言語辞書というのは、たとえば「広辞苑」が日本語で日本語を解説する辞書であるのと同様に、現代ワステカナワトル語で現代ワステカナワトル語を解説しているという意味である。辞書本体は
たとえば、先頭には
Nahuatl quipiya cempohualli huan nahui piltlahcuiloltzitzin:
a, ā, c, ch, cu/uc, e, ē, h, hu/uh, i, ī, l, m, n, o, ō, p, qu, t, tl, tz, x, y huan z
「ナワトル語は24個のアルファベットを持ちます:a, ā, c, ch, cu/uc, e, ē, h, hu/uh, i, ī, l, m, n, o, ō, p, qu, t, tl, tz, x, y と z」と書いてある。ここで、「アルファベット」と訳出した pīltlahcuilōltzitzin (ピールトラハクィロールツィツィ) は、tlahcuilōlli (トラハクィローリ)「書かれたもの」に対して、ものの小さいバージョンを表す*1 pil- ... -tzin の複数形 pil- ... -tzitzin を付けて構成されている。こうやって文法用語とかを組み立てつつ、644ページの辞書を書き上げる情熱はすごいと思う。
IDIEZの思想
このように、極めて情熱に溢れた IDIEZ は、それゆえ「どの綴字法を採用するか?」という観点について意識的に意志決定を行っている。
IDIEZ 以外の団体が行う現代ナワトル語教育は、/k/ の音を表すために k の文字を用い、/w/ の音を表すために w の文字を用いることが一般的であるようであり、たとえば Facebook などでナワトル語の用例を調べると k や w を用いた綴りが圧倒的に多く使われているという印象を受ける。
しかしながら、前回(もちろん、part 3 のこと)紹介したとおり、IDIEZ は現代ワステカナワトル語を表記する際には「古典ナワトル語で用いられた表記法」に強く寄せた綴りを用いる。
スペイン語は本来 k や w といった文字を全く用いない言語であったため、当然ながら古典ナワトル語の表記にはこれらの文字は登場せず、また /s/ の音を表すために当時は s を少々使いづらい諸事情 *2 があったことにより、それらの伝統を汲む IDIEZ においては、カ行・サ行・クヮ行・ワ行の表記が以下のような体系になる。
| ca カ |
qui キ |
-c -ク |
que ケ |
co コ |
| za サ |
ci スィ |
-z -ス |
ce セ |
zo ソ |
| cua クヮ |
cui クィ |
-uc -クゥ |
cue クェ |
|
| hua ワ |
hui ウィ |
-uh -ゥ |
hue ウェ |
このような綴字法を採用することは、当然ながら学習者にとっては負荷となる。
比較対象として、Secretaría de Educación Pública (以下 SEP)が用いる綴字法では、こうなる。 *3
| ka カ |
ki キ |
-k -ク |
ke ケ |
ko コ |
| sa サ |
si スィ |
-s -ス |
se セ |
so ソ |
| kwa クヮ |
kwi クィ |
-kw -クゥ |
kwe クェ |
|
| wa ワ |
wi ウィ |
-w -ゥ |
we ウェ |
SEP の用いる流儀のほうがシンプルであり、特に英語教育やローマ字入力などに慣れている日本語話者の皆様にとっては学びやすいことこの上ないことがご納得いただけるであろう。
しかしながら、「ca / qui / -c / que / co を用いる表記法で現代ナワトル語に慣れ親しめば、過去から受け継がれてきた文字資料を読んだりする助けになる」との考えから、IDIEZ はこのような(学習者にとって負荷となるであろう)表記を用いているとのことである。
IDIEZ、"the conventions of the linguistic tradition are so different from older writing that they constitute an obstacle to the reading and the study of the great corpus of older works that constitute the written cultural legacy of the Nahua civilization" ゆえ伝統的綴りだそうで、
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2020年11月19日
利点と欠点
IDIEZ のこの意図は、私にとっては有利なものであった。
高校生の頃に国際言語学オリンピックの日本代表をやっていた際、与えられたヒントを元に、古典ナワトル語が20進法(つまり、496 だったら「4つの100と9つの10と6」として表現するのではなく、「1つの400と4つの20と16 *4」として表現する)であることを把握せよ、という問題をブルガリアの大学の一室でひたすら解いていたことで*5古典ナワトル語の綴字法に既に若干慣れており、
大学に入ってからは Mitchara さんの宣伝ツイートにほいほいと乗っかって An Introduction to Classical Nahuatl by Michel Launey, translated and adapted by Christopher Mackay の Kindle 版を買い、
国際先住民語年、そういえば今年はコルテスのメキシコ上陸500周年だからだろうか。それについてはまあ昨日今日先住民語を始めたわけではないので何も言うことはありません。ありませんが、ナワトル語はわずか5000円で習得できるということは申し上げておきます https://t.co/jS9lRbn0Aa
— Mitchara (@Mitchara) 2019年8月18日
組版が劣悪で後悔し、
表組みなどもめちゃくちゃ崩れます。ぜひ紙で買いましょう。訳された当初は36ドルとかだったのに、年々値段が上がってるので、早いうちに買っておくのが吉です。どうせあなたがたは死ぬまでに一度はナワトル語を学ぶのですから。 https://t.co/YoBolewNNq
— Mitchara (@Mitchara) 2019年10月5日
この「どうせあなたがたは死ぬまでに一度はナワトル語を学ぶのですから」という文言に乗せられて紙でも買い、全ページに目を通したことがあったからである。
しかしながら、一緒に授業を受けていた人々の大半は、この利点を享受することができず、むしろ「k や w を用いる綴り」さえ採用していれば発生しなかったであろう誤った発音がいつまでも抜けない者ばかりであった。
まあ気持ちはそれなりにわかる(実際、私は古典ナワトルの文法を軽く見ていたおかげでだいぶ読みやすく感じているし)。一方で、実際に授業に参加すると、9週間経っても z を [z] と読み huan を [hwan] と読み qui を [kwi] と読む者が絶えないことも実感できる
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2020年11月19日
Hill & Hill の Speaking Mexicano という名著がありまして、その中でこういった問題はひととおり取り上げられていますね。英語読みの呪縛の強さと植民地式綴りが推奨される理由は通底している気がします(同じアルファベットで複数の正書法が混在することの負荷)
— Mitchara (@Mitchara) 2020年11月19日
これは要するに、
- 「正書法規則が与えられているので、それに基づいて綴りから正しい音を復元せよ」
- 「今日からこの言語をやります。この言語の正書法規則はこうなので、この綴りにはこの発音が対応し、この綴り字を見たらこう発音してください」
というのを脳にたくさんサクッとインストールした経験(つまり、「新規に語学を始める」という経験)に私は長けていたため困らなかったが、そうでない圧倒的多数の人にとっては誤読を誘発してナワトル語の正しい発音の習得を阻害しうる、という話である。
私もかつては気づいておらず、「言語な人」以外と接する機会ができてだんだん分かってきたのですが、「ラテンアルファベットの列を分析的に見て、習った規則に基づいて音素列に変換して発話する」という行為がサッとできるのは、特殊技能
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2025年11月20日
(かつ、そういう「特殊技能持ち」ばかりが、教科書を書く) https://t.co/XIrNuFzFSh
スタンフォードでナワトル語を取ったときは、一緒に学んでいた学習者層のほとんどが「祖先の言葉を学んでみたい、not-so-言語な人」だったので、特にその点を強く感じたhttps://t.co/y3QtN9QZvk
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2025年11月20日
日本語話者や英語話者は、その高度な技能が必要となる環境での訓練を積みすぎているがゆえに、「文脈から『たしかこうだったな』と想起するのではなく、教科書の冒頭に数ページでまとまっている規則を素直に適用して文字を音素列に変換する」という行為がかなりやりづらい傾向にあるのでは、と思います
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2025年11月22日
結論と考察…として2021年の私が位置づけていたが、全く結論にも考察にもなっていない、謎の文章
やはり、語学というのは私にとって一種の礼拝行為であるという感触を得ることができました。語学をやるのが好きであるから語学をやっているわけではないということですね。そりゃまあ世間一般の人に比べれば語学に対する抵抗感は少ないかもしれない(論拠:Amazonの欲しいものリストに語学書を入れたことがあるという事実)ですし、世間一般の人はどうやら語学というものに忌避感を覚えているっぽいのでそれに比べれば相対的には好きの部類に入るのかもしれませんが、個人的な感触としては私にとって語学というのは「やってて楽しい」の部分は2%ぐらいしかないんじゃないでしょうか。…と2021年の私は書いてますが、これ低く見積りすぎじゃないかなぁ。「やってて楽しい」の部分、15%〜35%ぐらいはありそうな気がしていますが、まあ自分の心情って別に自分でも分からないので、この定量化の試みは無意味です。
このことを実感したのは、この前(こんな社会情勢にも関わらず)突発的に筑波大学を訪問(して学生寮に1泊外泊)した際に@KOBA789と話していたときだと思っております。曰く、「(2021年の私はここに『ここに引用が入る』って書き残しているんですが、4年半が経過して文脈を完全に忘却しました)」。この話を聞き、あー私が語学書の全ページに目を通す(この行為に「読む」という動詞を用いていないことに注意。つまりそういうことです)際と似ているなぁという気持ちになりました。
さて、「楽しいからやっているというのは主要因ではない」ということの説明は長々と書いたわけですが、「礼拝行為である」と表現した理由はまだ書いていませんね。ということで書きます。…とだけ2021年の私は書いて丸投げしているんですが、とりあえずpart3.5をさっさと固めてしまいたいので、「礼拝行為である」と書いた理由についてはpart5以降に回したいと思います。
ところで、2021 年当時の私って、いったい何を思ってこのセクションに「結論と考察」と名付けているんですかね? 単に「試験前なのに単語を詰め込めていない!」という焦りでこういう文章を生みだしているんですかね? このセクションだけ「です・ます」体であるのもちょっと気になります。
*1:指小辞という。説明が面倒なので例を出していくと、ビオラとバイオリンの関係。オペラとオペレッタの関係。パンとパニーニの関係。ホモ[サピエンス]とホムンクルスの関係。ペッパーとペペロンチーノの関係(?)。カサ[ブランカ]とカジノの関係(???)。[無敵艦隊]アルマダとアルマジロの関係(?????)。うん余計にわかんなくなったね♪
*2:詳細は割愛。とりあえずPhonological history of Spanish coronal fricatives - Wikipediaを読んでいただきたい
*3:https://site.inali.gob.mx/INALIDhuchlab/assets/files/cartel_alfabeto_Nawatlatolli-nahuatl.pdf などを参考にした。
*4:実際は5進-20進なので、「1つの400と4つの20と15と1」
*5:なお、その問題文は長音の ō を ö と表記しており、当時の私は öme「2」を [øme] と脳内で発音しながら問題を解いていたことを今でも覚えている。